- デリバティブ
- シップ中佐(24歳)と15歳から21歳の士官候補生257名[1]がフェンスに沿った隙間に入ったのは第34マサチューセッツ連隊が攻撃を始めたのと同時だった。士官候補生達が隙間に移動した直後の砲弾の破裂でシップが一瞬気を失い、致命傷であることを恐れて、士官候補生達に「銃剣装着」を命じ、指揮はヘンリー・ワイズ大佐に渡した。士官候補生ジョン・ハワードは、「それは通常のレールフェンスで高さ約4フィート (1.2 m)だったが、その一番高いレールを乗り越えようとすると少なくとも10フィート (3 m)の高さになり、敵の目標にされた。しかし、この障害を乗り越える時に私は後に残してきた者のことを考えなくなった。」と回想した。士官候補生達は北軍の突撃に遭いそれを撃退した。シップ中佐が覚醒し、南軍の前線が全体的に雨を吸い込み最近耕されたばかりの小麦畑をこえて前進しているのに気付いた。この畑は、士官候補生達が前進するにつれて泥の中に足を取られて多くの靴が脱げたままになったので、後に士官候補生が「失われた靴の畑」と渾名を付ける事になった。 一方シーゲルの歩兵隊はびくびくとまた効果の薄い攻撃をしており、その後血を吸い込んだ泥の中を後退した。シーゲルはその攻撃が失敗した結果を予測し、砲兵隊も後退させ始めた。北軍の前線が破れた時は両軍の間が数ヤードしか離れておらず、南軍が席捲した。士官候補生たちが突撃を行い、1門の大砲を捕獲し、第34マサチューセッツ連隊の多くの兵士を捕虜にした。士官候補生O・P・エバンスは大砲の上に上がり、誇らしく士官学校の軍旗を振った。ブレッキンリッジ将軍が馬で駆け寄り、帽子を脱いで「良くやった!」と叫んだ。 シーゲル将軍は北のストラスバーグまで急速に撤退し、シェナンドー渓谷そのものをブレッキンリッジ将軍の部隊と活気ある士官候補生たちに明け渡した。 この戦闘でバージニア士官学校の士官候補生にも損失が出た。10人の士官候補生が即死するかこのときの傷が因で後に死亡した。 ニューマーケット・デーが毎年バージニア士官学校のニューマーケット部隊の記念碑「外国為替 」の前で行われている。1864年の部隊に参加した全ての士官候補生の名前が碑に刻まれており、死亡した10人のうち6人がこの場所に埋葬されている。儀式はニューマーケットで命を落とした士官候補生の名前を点呼する。これは1887年から始まった。戦死した士官候補生に名前が読み上げられると、同じ中隊の代表者が「戦場で名誉の戦死」と答える。 ニューメキシコ作戦(New Mexico Campaign)は、1862年2月から3月までの南北戦争における軍事作戦。アメリカ連合国軍のヘンリー・ホプキンス・シブレー准将が、コロラド州の金鉱とカリフォルニア州の港湾を含むアメリカ南西部での支配力を増すことを目的に、ニューメキシコ準州北部に侵攻した。歴史的には、アメリカ西部の支配を強めたことと、南北戦争の戦域を大きく広げたという点で、連合国軍によるもっとも野心的な試みと位置づけられている。 勝利を得た合衆国軍はエドワード・キャンビーFX に率いられ、指揮下には、のちのコロラド戦争中のサンドクリークの虐殺において悪名高い、第一コロラド志願兵部隊のジョン・チヴィントン少佐も含まれていた。一方のアメリカ連合国軍は、ヘンリー・ホプキンス・シブレー准将が率いた。 1861年夏、ジョン・ベイラーはテキサス人部隊を率いて南部地域に進み、メシーリャを獲得してアメリカ連合国アリゾナ準州を設立した。この侵攻はカリフォルニアの一部またはすべてを獲得しようとする連合国側の大きな戦略の一部であったが、しかしFX は砂漠を渡ってロスアンジェルスへ向かうことはできなかった。 1862年の作戦は全体の戦略の延長で、非常に長い侵攻ルートを使い、もし成功すれば、カリフォルニアを手中にし西部を合衆国から完全に奪うものであった。新しい戦略ではロッキー山脈の東側に沿って侵攻し、西部の鉱石に富んだネバダ州とカリフォルニア州を攻撃する前に、コロラド準州(当時コロラド・ゴールドラッシュの最中だった)とララミー砦(オレゴン・トレイル沿いにある最重要の合衆国陸軍駐屯地)を奪取することが標榜された。 1861年12月20日、ニューメキシコ軍司令官のシブレー将軍は、アメリカ連合国の名の下にニューメキシコの占有を宣言した。 1862年2月、シブレーはリオグランデ流域を北方に進軍し、領地の首都であるサンタフェとユニオン砦の合衆国軍貯蔵庫を目指した。連合国の前進は、クレイグ砦経由で川の西岸を渡り、そこにはキャンビ?指揮下の3,800名の合衆国軍がいた。クレイグ砦のキャンビーの軍隊には、キット・カーソン率いる第1ニューメキシコ志願兵部隊も含まれていた。それだけの大軍に進軍をできないと悟ったシブレーは、有利な条件で合衆国軍を戦いに誘い出そうと試みた。 2月19日、シブレーは、合衆国軍のサンタフェとの交通を切断する意図で、砦の東の砂丘に野営した。2月20日、合衆国軍は砦から進軍したが、連合国側の激しい砲撃に襲われ、やむを得ず撤退した。翌日、連合国軍は砦から6マイル北方のヴァルヴァードの浅瀬を行軍し、キャンビーは攻撃したが、合衆国軍は体調を崩したシブレーの後に指揮を執ったトーマス・グリーン大佐率いる連合国軍にうまく避けられた。キャンビーの部隊はクレイグ砦まで退却したが、しかし降参は拒否した。 シブレーは砦から離れることを選択し、サンタフェに向かって北方への進軍を続け、3月10日に占領した。この進軍は3月26日から28日までのグロリエタの戦いの合衆国の反撃によって決定的な打撃を受け、止められた。 ノックスビル方面作戦(ノックスビルほうめんさくせん、英:Knoxville Campaign[1])は、南北戦争中の1863年秋にテネシー州東部で行われた一連の戦闘と操軍である。アンブローズ・バーンサイド少将の指揮する北軍がテネシー州ノックスビルを占領し、チャタヌーガに居た南軍ブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍から派遣されたジェイムズ・ロングストリート中将指揮する部隊は、バーンサイド軍がチャタヌーガで包囲されている北軍を救援しないようにする任務があった。ロングストリートは東部戦線でロバート・E・リー将軍の片腕となる軍団指揮官だったが、西部戦線では独立した指揮官としての役割がうまくいかず、この方面作戦でも得るところは少なかった。 テネシー州東部の山岳地はFX が北部支持の地域であり、エイブラハム・リンカーン大統領はこの戦争の重要な目標と考えていた。北部に忠実な住民が住んでいることの他に、穀物や家畜が豊富であり、またチャタヌーガからバージニア州へ繋がる鉄道の通り道でもあった。1862年から1863年を通じて、リンカーンは何人もの指揮官にこの難しい地形を突破し地域を占領するように圧力を掛け続けた。アンブローズ・バーンサイドは1862年12月のフレデリックスバーグの戦いで完敗し、西部戦線に配転されて、1863年3月にこの方面軍とオハイオ軍の指揮を任された。バーンサイドはできるだけ迅速にノックスビルに侵攻する命令を受け、一方、同時にウィリアム・ローズクランズ少将のカンバーランド軍はテネシー州中部でブラクストン・ブラッグ軍と対抗するという命令を受けていた(タラホーマ方面作戦とそれに続くチカマウガの戦い)[2]。 バーンサイドの作戦はオハイオ州シンシナティからその2個軍団(第9および第23軍団)で進軍することだったが、第9軍団がビックスバーグ方面作戦にあるユリシーズ・グラント少将の支援を命令されたために遅れた。第9軍団の帰還を待つあいだ、ウィリアム・P・サンダース准将の旅団を騎兵隊と歩兵隊の合同でノックスビルを攻撃するために派遣した。6月半ば、サンダースの部隊は鉄道を破壊し、サイモン・B・バックナー准将が指揮する東テネシー方面軍が支配していた市の周辺の通信を混乱させた[3]。 8月半ばまでに、バーンサイドはノックスビル市に向けての進軍を開始した。ノックスビルに直接向かう経路はカンバーランド峡谷を通っており、防御する南軍側にとっては絶好の地形になっていた。バーンサイドはその道ではなく、南軍の側面に回りこむ道を選んだ。ジョン・F・デコーシー大佐の師団に北から脅威を掛けさせ、一方他の2個師団はノックスビルに向かう岩だらけの山岳路を40マイル (64 km)回り道して南軍陣地の南に向かった。道路の状態は良くなかったが、その部隊は1日30マイル (48 km)ほど進軍できた[4]。 チカマウガ方面作戦が始まったとき、バックナーは南のチャタヌーガに呼びつけられ、カンバーランド峡谷には1個旅団、ノックスビルの東に1個旅団を残しているだけだった。サミュエル・ジョーンズ少将がバックナーに代わって東テネシー方面軍の指揮を執った。バーンサイドの騎兵旅団が9月2日にほとんど抵抗無いままにノックスビルに到着した。翌日バーンサイドとその主力軍は市内を占領し、地元の民衆に暖かく迎えられた[5]。 カンバーランド峡谷では南軍ジョン・W・フレーザー准将指揮する2,300名の経験不足な兵士が守備に付いていたが、バックナーの撤退に続いて何をすべきか命令を受けていなかった。9月7日、北からはデコーシー隊、南からはジェイムズ・M・シャッケルフォード隊が接近してくる事態に直面して、フレーザーは降伏を拒否した。バーンサイドとサミュエル・A・ギルバート大佐の歩兵旅団がノックスビルを出てわずか52時間で60マイル (96 km)を急行した。フレーザーは勢力で圧倒されていることを認識し、遂に9月9日に降伏した[6]。 バーンサイドはローズクランズ軍の支援にいくらか騎兵隊を派遣し、東テネシーからバージニアに抜ける道と峡谷を掃討し、できるならばバージニア州アビントンの向こうにある製塩所を確保する遠征の準備をおこなった。この間にチカマウガの戦いが迫り、ワシントンD.C.からは南に動いてローズクランズを支援するという興奮した要請が来ていたのを、新しく占領したばかりの領域と忠実な市民を放棄することを望まなかったバーンサイドは実質的に無視した。さらに岩の多い地形を抜けて物資を動かす難しさがあり、その供給基地から遠くに動いた場合に深刻な問題になることを懸念していた[7]。 バーンサイドがローズクランズ軍の支援を督促されている間に東テネシーでは比較的小さな戦闘が2つ起こった。 9月22日、北軍ジョン・W・フォスター大佐はその騎兵と砲兵隊で南軍のジェイムズ・E・カーター大佐の部隊と、ブラウンツビルで戦った。フォスターは正午に攻撃を始め、4時間の戦闘の間に町を砲撃し、側面攻撃を開始して南軍を撤退させた[8]。