- デットアサンプション
- ロングストリートが次の行動を考えているときに、ブラッグ軍が11月25日の第三次チャタヌーガの戦いで完敗したという報せが入った。ロングストリートはブラッグ軍に合流しろという命令を受けたが、その命令は実行不可能と感じ取り、ブラッグには、部隊を連れてバージニアに戻るが、可能な限りノックスビルの包囲を続け、それでバーンサイドとグラントの軍が合流してテネシー軍を全滅させに向かうことを阻止できると伝えた。この作戦はグラントがシャーマンに25,000名の部隊を付けてノックスビル包囲を開放させに派遣したので、有効であることが分かった。ロングストリートはその包囲を12月4日に中止し、北東65マイル (104 km)のテネシー州ロジャースビルに向けて撤退し、冬の宿営に備えることにした。シャーマンはゴードン・グランジャー少将をノックスビルに残し、その軍隊の大半を連れてチャタヌーガに引き返した。バーンサイドの参謀長であるジョン・G・パーク少将が8,000名の歩兵と4,000名の騎兵を率いて南軍を追跡したが、あまり接近することは無かった。ロングストリート軍は12月6日にラトリッジ、12月9日にロジャースビルと行軍を続けた。パークはジョン・M・サッケルフォード准将に約4,000名の騎兵と歩兵を付けてロングストリート軍の探索に当たらせた[16]。 12月13日、シャッケルフォード隊はホルストン川沿いのビーン駅近くにいた。ロングストリートは戻ってビーン駅を占領することに決めた。南軍の3部隊と砲兵隊がビーン駅に接近し北軍を捕まえようとした。12月14日午前2時までに、1隊が北軍の哨戒隊と小競り合いを行った。この哨戒隊は出来る限りの抵抗をし、シャッケルフォードに南軍の出現を警告した。シャッケルフォードは部隊を配置して攻撃に備えた。間もなく戦闘が始まり、ほぼ一日中続いた。南軍の側面攻撃やその他の襲撃が様々な時刻と場所で起こったが、北軍は南から援軍が到着するまで持ち堪えた。夜の訪れまでに北軍はビーン峡谷を抜けてブレインの交差点方向に撤退した。ロングストリートは翌朝北軍への再攻撃を始めたがブレインの交差点に近付くと北軍が塹壕線を固めていることが分かった。ロングストリート軍は撤退し、間もなく北軍もその地域を離れた[8]。 ノックスビル方面作戦はビーン駅の戦いで終わり、両軍は冬の宿営に入った。この小さな方面作戦での唯一実効があったことはチャタヌーガのブラッグ軍から是非とも必要な戦力を抜いたことだった。ロングストリートの独立した指揮官としての襲撃は失敗し、その自信が傷つけられた。ロングストリートは、前年の半島方面作戦のセブンパインズの戦いの時にやったように、この方面作戦の失敗を他人を非難することで反応した。ラファイエット・マクローズを指揮官から解任し、ジェローム・ロバートソン准将とエバンダー・ロー准将の軍法会議を要求した。総務局長のサミュエル・クーパーには12月30日に辞表を送ったが、その辞意は受け付けられなかった。そのFX は東テネシーで適切な隠れ場や物資も無く厳しい冬を過ごし、春まではバージニアに戻ることもできなかった[17]。 この方面作戦でのバーンサイドの有能な行動はワシントンでの心配にも拘らず、フレデリックスバーグでひどく傷つけられていた軍人としての評判をいくらかでも回復した。ノックスビル死守に成功したこととチャタヌーガでグラントが勝利したこととで、戦争の残り期間東テネシーの大半は北軍の支配下になった[18]。 ハーパーズ・フェリーの戦い(ハーパーズ・フェリーのたたかい、英:Battle of Harpers Ferry)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月12日から9月15日にかけて行われた戦いである。ロバート・E・リー将軍の南軍がメリーランド州に侵攻したとき、その一部であるストーンウォール・ジャクソンの軍団がバージニア州(現在はウェストバージニア州)ハーパーズ・フェリーの北軍守備隊を包囲して砲撃し、降伏させた。ジャクソン隊はその後メリーランド州シャープスバーグに急行して、リー軍と合流しアンティータムの戦いに参戦した。 ハーパーズ・フェリー(元々はハーパーの渡し場)はポトマック川とシェナンドー川が合流する地点にある小さな町であり、昔からアメリカ陸軍の弾薬庫と(ジョージ・ワシントン大統領が設立した)[1]、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道でポトマック川を渡るための重要な橋があった。以前に奴隷制度廃止運動家のジョン・ブラウンがその弾薬庫を襲撃したことがあった。 この町はあらゆる面が高い丘に見下ろされており、事実上防御には不向きだった。西方は、徐々に標高が上がって約1.5マイル先の標高668フィート (204 m)の高原、ボリバー高地に繋がり、それがポトマック川からシェナンドー川まで拡がっていた。南方のシェナンドー川の向こうにはラウダン高地が1,180フィート (360 m)の高さから見下ろしていた。また北東のポトマック川の向こうは、エルク尾根の最南端にあたり、標高1,476フィート (450 m)のメリーランド高地の尾根になっていた。ある北軍兵士は、これら3つの高地を保持できなければ、ハーパーズ・フェリーは「井戸の底よりも防御できない」と記していた[2]。 ロバート・E・リーの北バージニア軍がメリーランド州に日経225 すると、リーは、ウィンチェスター、マーティンズバーグおよびハーパーズ・フェリーでシェナンドー渓谷にある南軍の供給線を遮る可能性がある北軍守備隊は、孤立すれば1発の発砲も無く放棄されると予測した(事実、ウィンチェスターとマーティンズバーグは放棄された)[3]。しかしハーパーズ・フェリー守備隊は撤退しなかった。リーはハーパーズ・フェリーの守備隊と弾薬庫を占領して、そこの武器弾薬を確保するだけでなく、バージニアまでの供給線を確保しておく作戦を立てた。 リー軍は勢力比で2対1と優勢な北軍ジョージ・マクレラン少将のポトマック軍から緩りとした速度で追跡されていたが、ハーパーズ・フェリーという賞品を手に入れるために、その軍隊を分割するという危険性のある戦略を選んだ。ジェイムズ・ロングストリート少将の軍団が北のヘイガーズタウンに向かう一方で、ハーパーズ・フェリーに資産運用 して攻撃させるために3つの方向から部隊を送った。一番大きな部隊はジャクソンの11,500名であり、ポトマック川を渡りハーパーズ・フェリーの西に回り込んでボリバー高地から攻撃することとした。他の2部隊、ラファイエット・マクローズ少将(8,000名)とジョン・G・ウォーカー准将(3,400名)は東と南から町を見下ろすメリーランド高地とラウダン高地をそれぞれ占領することとされた[4]。 マクレランはその野戦部隊にハーパーズ・フェリーの守備勢力を加えたいと思ったが、総司令官ヘンリー・ハレックがその移動は難しすぎ、守備隊は「最後の瞬間まで」すなわちマクレラン軍が解放に来ることが出来るまで自分達で守らなければならないと言って、マクレランの提案を拒否した。おそらくハレックは守備隊の指揮官ディクソン・S・マイルズ大佐が少しでも軍事的知識と勇気を示してくれるものと期待していた。マイルズは外国為替証拠金取引 で米墨戦争も戦った38歳の古参兵であったが、第一次ブルランの戦いの後で、マイルズが戦闘中に酔っぱらっていたと審問された時から面目を失っていた。マイルズは酒を断つと誓い、静穏であると考えられるハーパーズ・フェリーの任務に配転された[5]。守備隊の多くは経験の足りない者であり、総勢は14,000名だが、9月11日にジャクソン隊の接近によってマーティンズバーグの撤収を余儀なくされた2,500名を含んでいた[4]。 9月11日の夜、マクローズがハーパーズ・フェリーの北東6マイル (10 km)のブラウンズビルに到着した。マクローズはブラウンズビル峡谷近くにその後衛として3,000名を残し、他の3,000名をポトマック川に向かわせてハーパーズ・フェリーから東への逃亡経路を塞いだ。9月12日にジョセフ・B・カーショーとウィリアム・バークスデイル各准将の古参兵旅団をメリーランド高地確保に向かわせた[2]。他の南軍部隊は緩りとしか進めず予定より遅れていた。ジャクソン隊はマーティンズバーグで遅れた。ウォーカー隊はチェサピーク・アンド・オハイオ運河からモノカシー川を横切ってポトマック川に注ぐ水路を破壊するように命じられたが、その工兵では石造りの投資信託 を破壊するのが難しく、結局中止された[6]。 ウォーカー隊は9月9日にポイント・オブ・ロックスからバージニア州のラウダン郡に入り直した。ウォーカー隊はラウダン生まれのイライジャ・V・ホワイト大佐とその第35騎兵大隊に支援されていた。ホワイトはその任務に不満であり、軍本隊と共にいることを好んだ。ホワイトにとって不幸なことに、メリーランド州フレデリックでJ・E・B・スチュアート将軍と口論になり、その後リーによってバージニア州に戻るよう命令された。その処置が責められるかそうでなかろうと、ホワイトはショートヒル山周辺の曲がりくねった道を誘導して、4日後の13日にラウダン高地の麓に到着した[7]。このために9月11日に予定されていたハーパーズ・フェリーへの攻撃が遅れ、リー軍が分割されている間にマクレランが攻撃してリー軍の残り部隊を破壊する危険性が増した。